W先生

河西晋冴

 恐らく東北訛りだろう。かなり訛っている。しかし本人は標準語をしゃべっているつもりだ。いや、実際に
標準語をしゃべっている。W先生の話す言葉を文章にしたら、紛う方無き標準語だ。しかし発音は見事に
訛っている。怖い先生なので誰も訛りの事は聞かないが、福島県の出身だと誰かが言っていた。マンガに
出て来る様な牛乳ビンの底みたいなメガネをかけた、定年退職が近いちょっと変わった男の先生━。この
人が私の中一の時の担任だったW先生である。
 W先生の授業はあまり面白くないが、ホームルームは面白い。時々思い掛けない事を言う。あるホーム
ルームでは歴史の話をしていた。白鳳期の仏教美術についての話だ。白鳳期の仏像は美しいのだそう
だ。あまり良く分からないが、まあ、そうなのだろう。だが、話はとんでもない方向に展開して行く。
 「男子も女子も、今夜誰にも見付からない様に、密かに鏡の前で一人で素っ裸になって自分の美しい姿
を眺めるんだ。そして“白鳳期・・・”と呟きなさい。少年や少女の美は長くは続かない。今しかないんだ。こ
れが出来るのは・・・。私なんて歯を磨く時に鏡に映る己の姿の醜さに、毎朝あぶら汗をダーラダラと流して
いる。何て醜いのだろう!・・・だが君たちは美しい。しかもそれだけじゃない。外見だけの美でもないんだ。
いいかい?君たちは色々な意味で今が一生のうちで一番いい時なんだ。」
 自宅への帰り道に考えた。本当に今夜やるやつはいるんだろうか?いないとも言い切れない。2〜3人
は本当にやるだろう。もちろん私はやらなかったし、翌日やったかやらなかったかの話題も出なかった。だ
が、このホームルームは私にとってかなりのインパクトがあるものだったので、私はある実験を思い付い
た。そして数日後、実験には絶好の条件が整ったのだった。
 それはある朝の登校途中だった。その朝は見事な秋晴れで、空は何処までも澄んでいた。気持ちも清々
しく、まさに“今が一生のうちで一番いい時”を感じさせる瞬間だった。私は心でシャッターを切った。そう、
実験とはこの“写真”を大人になってから見てどう感じるかという実験だったのだ。気の遠くなる様な話だ。
大体、大人になるまで生きていられるという保証も無い。勉強して進学して就職して結婚して子供が出来る
━こういった当たり前の事が出来るというのはラッキーな事で、明日死ぬ事だって有り得る・・・私はそんな
事を常々考えている変わった子供だったのだ。だがその朝は純粋な少年の心でその“実験”に臨めたのだ
った。
 その後しばらくして中一の終わり頃、W先生は転勤が決まった。春休みには有志の友達でW先生を招い
てお別れ会を開いた。写真が上手かったW先生は写真を撮ってくれて、後からわざわざ送ってくれた。そ
の写真と、遠足の時にW先生といっしょに写った写真が私の子供時代の一番のお気に入りの写真だ。そ
れらの写真ともう一枚。そう、あの“心の中の写真”だ。意外な事にその写真も、大人になった今でも鮮明
で美しい。実験は驚く程“プラス”の結果を出していたのだった。
 正直言ってこういう結果は期待していなかった。音楽活動や漫画製作に没頭した少年時代。変わり者に
は普通の人間の様に甘い想い出は残せないと勝手に思っていた。だがこの事に関しては残す事が出来
た。私の宝物だ。きっと永遠に色褪せないんだと思う。ありがとう、W先生。

W先生

戻る

戻る

オリジナル曲等〜アルデンテ〜 TOP